ドラマ・デトックス
先日、テレビドラマ好きな方とお話ししていました。 今期のドラマ、私は石原さとみ主演の『destiny』と、中村アン主演の『約束』を見ています。どちらのドラマも、主人公は父親が過去に犯した罪により心に傷を負いながらも立身出世を果たし、いま再び過去の真実を明らかにすべく奮闘するというようなストーリーです。…ざっくり過ぎですが。父親は本当に罪を犯したのか?あるいは父もまた被害者なのでは?
「そういえば数年前のドラマ、竹内涼真主演の『テセウスの船』も、同じようなテーマのドラマでしたよね?」
「日本のドラマに多い設定なんですかね?」
「韓国ドラマは(逆にというか何というか)復讐もののドラマがすごく多いよね」
というようなやりとりが続き、そこでハタと気づきました。そうか、これは戦後の国民的集合意識に浸透している罪悪感や自己憐憫によってなされる必然的な表現なのかもしれない。無意識のうちに抱えているネガティブな感情を癒す、いわばメンタルデトックスのために必要なストーリーは、国の数だけ、更にいうなら人の数だけあると思うから。
アマゾンプライムで見た『ある男』という2022年の映画では、窪田正孝演じるある男の父親が過去に大罪を犯したことは疑いの余地なく明らかであり、男がその血筋に苦悩する様が描かれていました。
村上春樹は『猫を捨てる 父親について語る時』というエッセーをやはり2022年に出しています。あとがきから一部引用します。
「僕がこの文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間 ー ごく当たり前の名もなき市民だ ー の生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということだ。
ー中略ー
歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、あるいはまた無意識の内側で、温もりを持つ生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれていくものなのだ。そういう意味合いにおいて、ここに書かれているのは個人的な物語であると同時に、僕らの暮らす世界全体を作り上げている大きな物語の一部でもある。ごく微少な一部だが、それでもひとつのかけらであるという事実に間違いはない。」
疫学博士で国際協力学者の三砂ちづるさんが「自分と他人の許し方、あるいは愛し方」の冒頭、こんなふうに書いています。
「「魔がさした」という言い方をすることがあるんだけど、「魔」ってなんだろう。 本当はこう生きていたいのに、本当はこんなに愛していたいのに、本当はこんなつまらないことは忘れていたいのに、本当はこんなことこだわっていないで許していたいのに。
魔がさすのだ、魔が。
「魔の正体は、自己憐憫と罪悪感です」、今となってはいったいどこからこの言葉を覚えたのか、誰かに聞いたのか、なんだかよく思い出すことができないのだが、魔の正体は自己憐憫と罪悪感である。」
ヨガ哲学では、アヒンサー(非暴力)という、全ての練習の土台とも言えるテーマがあります。
アーサナ練習においては、自分自身が作り出した動きが、自分自身の内側に被害者意識も加害者意識も生み出さずにすむような調和的でニュートラルなものであるようにと祈るように動きを重ねていきます。
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