青い壺と5億年の記憶


 本屋をぶらぶらと歩くのが好きです。あらかじめ読みたい本が決まっている時には、やっぱりネットが便利。だけれども、大量の本の山の中を歩きながら、その日その時に自分の目にとまって手にした本に書かれた内容には、やっぱり今の自分にとっての新鮮な気づき、幸運な出会いがひそんでいる事が多いように思います。  


 そんなわけで先日も本屋を歩いていて手にしたのが「人体、5億年の記憶」という本。ヨガの練習生にとって気になるタイトル、かつ養老孟司さんおすすめとあれば、手に取らざるを得ません。  前から気になっていた有吉佐和子さんの「青い壺」も変わらず気になり続けているので、今日こそはと二冊を持ってレジに向かいました。  


 「人体、5億年の記憶」の著者、布施英利さんは、養老孟司さんの先生でもある解剖学者、三木成夫さんの教えを受けた東京藝大の美術解剖学の先生です。(世の中には本当にいろんな研究分野があるんですね!)大いに影響を受けた三木成夫の世界観を自分の言葉として体系化し、そこから一歩進めて自分の学問世界を形にしたいとして書かれた本です。  


 以前、三木成夫さんの「内臓とこころ」という講演録を読んだ事があります。養老先生の著作でもそうですが、講演録というのは温かい人柄のにじみでる語り口がそのまま文字におこされていて、とても読みやすいものです。またこれはヨガの沖正弘さんや、整体の野口晴哉さんの本を読んでいても感じる事ですが、この時代の知識人の手によって書かれた本には、ハラスメントの規制やコンプライアンスの遵守、エビデンスの重視が過剰になりがちな今の時代特有の、全方位に気をつかったかしこまった文体、あるいは逆に誰かを傷つける事をもいとわない全てむき出しのような文体では表現しえない、人をホッとさせる何かがあります。  


 人体とは、結局、何なのか?三木成夫によると、まずその第一は「一本の管」である、ということです。私たちの身体はいっけん、まず軸となる骨格があり、それを筋肉が支え、その中に内臓が収まって出来上がっているように見えます。だけれども、生命進化の観点から言うならば、無脊椎動物のからだに見られるように、むしろまず先に内臓である消化管という一本の管が存在するのです。次に背骨。これは脊椎動物の始まりであり、魚のからだの構造と重なります。そこから、えらがなくなり、そのかわりに耳、首、肺、表情筋、唇などが出現し哺乳類となります。直立が可能になり、腕や脚が進化し、まっすぐ立ったからだの上に乗るので、大きな脳の重さに体が耐えられるようになったのです。  


 そんなふうに、人体には進化の5億年の歴史が刻まれていて、からだの声に耳をすますことは、5億年の「はるかな思い出」の声を聞くことであり、ひいては「人間は星だ!」という思想にまで広がる。三木はそれを「こころ」の世界の本質と考えた、というのがこの本のひとつの結論です。


    

  「すべての生物は太陽系の諸周期と歩調を合わせて『食と性』の位相を交代させる。動物では、この主役を演ずる内臓諸器官のなかに、宇宙リズムと呼応して波を打つ植物の機能が宿されている。原初の生命球が〝生きた衛星〟といわれ、内臓が体内に封入された〝小宇宙〟と呼びならわせるゆえんである (内臓とこころ)」



  ヨガの世界においても、このように人体を一本の管、エネルギールートを備えた小宇宙と捉える観点は、とても馴染み深いものです。    


 さて、続けて読んだ「青い壺」。  こちらは、あるひとりの陶芸家が生み出した美しい青磁の壺が人から人の手へと渡り歩くうち、その美しさゆえに手にした人の心の機微を余す所なく浮かび上がらせていく連作短編小説です。  


 この「青い壺」は、経管(きょうかん)といって、お経を収める容器に似ていることから、そう呼ばれるようになった筒形をしています。  …なんだか神経の通った背骨のような壺だ…とつい思ってしまったのは、たまたま人体についての本を読んだ直後だったからでしょうか? 


  美術。人が何かを見て美しいと感じるのはなぜなのか、というテーマがどちらの本にも流れています。長い時間をかけて自らの体の声に耳をすまし続けてのち、ようやく至れる境地にたどり着いたこころが、外の世界に目を向けて何かと出会い、それが美しいものだとわかった瞬間の驚き。それはきっと、内なる「主体と構造」ともいうべき二つのこころ、ヨガの世界ではアートマンとブラフマンと呼ばならわされるようなものが結ばれ共振するトリガーに出会えたという内なるサインです。  


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