「ドライブ・マイ・カー」
昨年、カンヌ受賞で話題になっていた映画がアマゾンプライムに早くも登場したので、さっそく観ました。この映画の原作は、村上春樹さんの短編小説集「女のいない男たち」に収められている50ページほどの短編で、それも割と淡々としたストーリーなのに、どうやって3時間もの映画にできたんだろう?と思っていました。
主人公が、舞台俳優であり演出家であることもあってか、できる限り感情を乗せずに(ほとんど棒読みみたいにして)発したセリフのやり取りで進む場面が多くて、村上文学を彷彿とさせます。そしてそれは、日本語話者にとってはどうしても違和感を感じさせるものではあるのですが、同時に、それ以外の言語話者にとってはむしろ、よけいな装飾を削ぎ落として作品の意図(というものがあるならば)をうまく浮かび上がらせるのに効果的な役割を果たしているのではないかとも思います。
おそらく、この映画のメインテーマは、原作である小説のそれとは違っている、あるいはふくらませていて、ひとつには、世界的な共感を得ている小説家の作品を土台にして、日本語話者、韓国語話者、中国語話者、手話者、動物、植物、海、などの間で交わされる「言葉だけによらないコミュニケーションの可能性を探る」という事。そして、「どのような状況下において、人の間にもたらされるものは"創造"となり、または"破壊"となり、あるいは"癒し"となり得るのかを探る」
という事ではないかというふうに、私は観ました。このコロナ禍や戦争の時代を生きる世界中の人々が、多かれ少なかれ受けている痛みが少しでも癒される道を示してくれるかのように。
原作の小説においては、登場人物は数名に限られていて、扱うテーマも、「人の心を理解する事の困難さ、更にいってしまえば不可能さ」というような事にフォーカスを絞っています。現実に男性、女性という属性がある、という事とは別に、それぞれの個人の中に男性性、女性性というものがあるとして、全てを理解したい、征服したい、制御したい、という男性性の望みは完全なかたちで叶う事はない。自然の流れに沿っている女性性は、つかんだそばからすり抜けていってしまうから。すり抜けていく"盲点"のようなものは、それが元から"抜け穴"としてあるゆえに、消えてなくなる事はない。
人の心を完全に理解しきるという事は、そもそもできないものだという前提をそのまま受け入れた上で、それでもできる限り、少なくとも自分の核心に近づく事はできると信じて、それぞれが前を向いてというのか、自分の中心に向かってというのか、自分をどうにかコントロールして進むことしか結局はできないのだし、そうして進む道で見える景色は必ずしも暗いものばかりではない。
ヨガでは古典的に、感覚器官がとらえる刺激に翻弄される馬車馬のような自分の肉体を、冷静な御者のような理性で制御し乗りこなさなくてはならない、とされます。
「ドライブ・マイ・カー」の中でも、似たような比喩として、車の運転シーンが多く出てきます。映画の登場人物に、すぐに感情に流されて破滅的な行動を繰り返してしまう若い男性がいて、その人物は小さな自動車事故も起こしています。
昨年の芥川賞を受賞した砂川文次さんの「ブラックボックス」という小説で、自分の中の怒りの暴発を止められない自転車便のメッセンジャーとして描かれる主人公の男性が、最終的に破滅的な行動に至るまでの細かい心理描写が表現されていましたが、それを思い出すような展開が、映画「ドライブ・マイ・カー」でも起こります。
自分を取り巻く世界のままならなさに動揺し混乱し、それでも混乱の渦に飲み込まれないように必死で自分の内側の静けさに意識を繋ぎとめておこうと祈るような気持ちで日々を送っている人は、同じような心境の人たちの存在に気づきはじめます。大切な自分の車を委ねて運転を代わってもらった時、不安ではなく安心を得ている自分を感じている時、その人たちの間には癒しが起きています。
それにしても、主演の西島秀俊さんが最近の多くの作品で体現しているような在り方は、村上文学に登場する多くの主人公のそれに、とてもよく似ています。人が人の心を完全に理解することはできないのだという悲しみを受け入れ飲みこみ、共に痛み苦しみを味わいながらも、それでも隣りに寄り添っていてくれる優秀なドライバーような存在を、人は必要としているのかもしれません。
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