ホモデウスとオズの魔法使い
イスラエルの歴史学者であり哲学者であるユヴァル・ノア・ハラリの「ホモデウス」を読みました。頭が良すぎる人の書いた本を読むのは、運動神経が良すぎる人の踊りやスポーツを観るのと同じような、あるいは整理整頓アドバイザーに自分の頭の中を整理してもらってるかのような気持ちよさがあるものですが、扱うテーマのスケールが大きすぎて、一度には自分の脳には入りきらないせいか、どうしても途中で眠気におそわれてしまって途切れ途切れになってしまうし、最後まで読み終えても、一回だけではほとんどの内容は記憶に残らず、すり抜けていってしまってるのではないかとも思います。
そんな感じで理解が追いつかないながらも、脳のデータ処理容量が大きい人がしてくれる話を読みたくなるのは、時間軸でも空間軸でも、"私"の理解の限界をとんでもない破壊力で破ってくれるからなのですが、そこには、世の中をわかったようなつもりになって小さくまとまってやり過ごそうとするのは許さないとばかりに根底から揺さぶりをかけられ、精神的コンフォートゾーンから引きずり出されるかのような怖さもあります。
著者は、人が歴史を学ぶ意味は、過去を記憶することではなく、過去から解放されることにあるといいます。
「本書の狙いは、新しいテクノロジーの地獄と、テクノロジーが主導する天国への可能性の両方を描き出すことにある。まだ間に合ううちにさっさと新たな天国を構想する事を怠れば、浅はかなユートピアのビジョンに惑わされ、あっさり道を誤りかねない。そして、まだ時間が残っているうちに早急に新たな地獄を思い描くことをしなければ、その地獄にはまり込んで二度と抜け出せなくなるかもしれない。」
「とはいえ、新たな形で考えて行動するのは容易ではない。なぜなら私たちの思考や行動はたいてい、今日のイデオロギーや社会制度の制約を受けているからだ。本書ではその制約を緩め、私たちの行動を変え、人類の未来についてはるかに想像力に富んだ考え方ができるようになるために、今日私たちが受けている条件づけの源泉をたどってきた。単一の明確な筋書きを予測して私たちの視野を狭めるのではなく、地平を広げ、ずっと幅広い、さまざまな選択肢に気づいてもらう事が本書の目的だ。繰り返し強調してきたように、2050年に求人市場や家族や生態系がどのようになっているのか、本当にわかっている人は誰もいないのだ。」
ひとりの人間が、一生を通じて変化していく自分の心身を制御し続けるだけでも大仕事だというのに、ひとたび外の世界に目を向けると、人間社会は急速な情報化ネットワークの広がりにより著しい変化を遂げていて、しかもその情報をすべて理解し制御できる人はどこにもいないという事実を突きつけられます。
そうかといって、この本が扱う壮大なテーマは、別世界の事という感じは全くなく、自分の生活圏内でも、情報化、データ化の波が押し寄せてきていていることによる信じられないような恩恵も、また危機感も、現実としてひしひしと感じています。
一昔前はできるだけ多くの情報を得られる事が豊かさであったというのに、今や、洪水のように押し寄せる情報の中からどれだけ不要なものを外せるかという取捨選択の力が問われています。
本の文中にも少しだけ出てくる「オズの魔法使い」に、こんなエピソードがあります。脳が欲しいかかしと、心が欲しいブリキのきこりと、勇気が欲しいライオンは、ドロシーと一緒にオズにたどり着いたら、偉い魔法使いが望みを叶えてくれると信じて旅にでますが、旅の終わりに魔法使いは詐欺師だとわかります。彼らの望みは何ひとつ叶えてもらえません。でも彼らは、それよりもはるかに重要な事に気づきます。望んでいたものはすべて、すでに彼らの中にあった。敏感になったり、賢くなったり、勇敢になったりするためには、神のような魔法使いなど、全く必要ではなかった。道をたどり、途中で出くわす経験に心を開きさえすればよかったのだと。風が吹くたびに吹き飛ばされる訳にはいかないけれども、それでも、必要であれば新しい経験を拒まず、それが自分の見方や行動を、さらには人格さえ変えるのを許すべきだと。
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