理解は二極の間に訪れる
MERU[メルー]という映画を観ました。メルーというのは、インドにあるヒマラヤ山脈にそびえる山の名前で、「メルー」という名前はタミール語で「背骨」を意味するそうです。
メルー峰にはガンジス川の源流がある事から宇宙の中心と言われる事もあるそうで、山の麓ではインドのヨガ行者が座している場面なんかも出てきます。
本当はそんな事はできないし、するべきでもないのかもしれないと思いつつ、この映画を観た感想を強引にひと言であらわすならば
「積極心がもたらす驚異的なレジリエンス(回復力)」
という事です。
メルー山は、そのあまりに過酷な状況が登る人を寄せ付けず、いまだかつて登頂した記録がない前人未到の山なのですが、そこへ3人の登山家が挑んでいきます。
一度目の登頂に失敗し、二回目の登頂に挑むまでの間に、3人が3人とも、生きているのが奇跡というような心身の危機に見舞われます。観ている私は心の中で、数年前のフィギュアスケートの国際試合で羽生結弦選手が直前練習で他の選手と激しく衝突して大けがをしたのにも関わらず出場を辞退しないという判断をして、頭や脚に包帯を巻き、鬼気迫る表情で演技をやり遂げた一部始終を見届けた時の気持ちがよみがえるのを感じました。
「何が彼に、そこまでの事をさせるのか?」
「メルー」を観る前に、古い日本映画で「雨月物語」というのを観たところでもありました。この物語は上田秋成という江戸時代の作家が書いたものなのですが、以前何かの本で村上春樹が、ご自分の作風を上田秋成の流れを汲むものであると言っていて気になっていたので。私は本でも映画でも、時代物はあまり得意じゃなくて、普段めったに手が伸びる事はないのですが。
村上春樹の小説は、物語の途中でこの世の人ならざるものが突然あらわれて、主人公が混沌とした状況に巻き込まれるものが多いのですが、確かに雨月物語もその系譜にあるものでした。
二組の夫婦が出てきます。どちらも夫の方は立身出世の野望をもち積極的に人生を切り拓いていこうとするのですが、それに対して妻達は、貧しくとも家族仲良く日々の慎ましい生活を営めたら、それ以上に望むものは何もないと主張しながらも、乱世の野望が渦巻く世の中の流れに翻弄され、苦境に追い込まれていきます。身の丈にあわない野望や私欲とまわりに流される消極的な弱い心や依存心が、どれだけの不幸を自分と家族に招いたのかを思い知り行動を変えるまで、不幸の連鎖は止まりません。
ヨガの古典的教本であるヨーガスートラの中にある教えで、ヨガの練習には修練(アビャーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)という2つの方法が必要である、という一節があります。また進んですべき事として、苦行(タパス)と知足(サントーシャ)という事も言われます。
自分が今向き合っている事に対してできる限りの情熱を持って取り組む、と同時に、生命をつなぐに足るだけのものがあれば満足し、それ以上をあえて求めないという態度を身につける。
こんな数行に目を通しただけではなかなか腑に落ちてこない大きなテーマを、映画は具体的な人生の状況に落とし込んでひもとき、私たちに教えてくれます。
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