「みみずくは黄昏に飛びたつ」
「みみずくは黄昏に飛びたつ」
作家の川上未映子さんが村上春樹さんに対して、小説にまつわるありとあらゆる疑問を聞いて聞いて聞きまくっている対談本を読みました。
読んでいると、まるで、熱心にヨガの練習をしている人が、道の先を行くヨガマスターに出会って、極意を教えてほしいと質問責めにしているかのような感じを受けます。マスターは練習生の質問に対してひとつひとつ丁寧に答えてくれます。
対談中、村上さんが「言いたいことを直接言わないというのが小説の基本」だというような事を言います。あ、そういえばつい先日テレビで、俳句の夏井いつき先生も「俳句は、原因と結果を明らかにするような表現を嫌う」と言ってました。読み手の想像力をなるべく限定させず膨らませるような書き方をするのが文学の基本??
小説を書くという事とヨガをする事にはおそらく共通項があって、それは、自分の無意識の領域に深く降りていってそこに繋がろうとする作業である、という事です。
異なる手段で、同じ方向に向かおうとしているんだと思うのですが、ヨガの場合は、むしろ、物事の原因と結果の関係というのは、これこれこういう事になっているんです!とはじめにバーン!!と提示されています。その事が各人の消化のペースに合わせて腑に落ちるまで、あるいは本当にその通りになっているのか確かめるまで、どのように過ごしていればいいかの実用的解説をしているようなもので、使用するメインテキストは各自の身体です。
身体といえば解剖学。解剖学者の養老孟司先生がご自身のお書きになるものを、文学でも哲学でもなく何とも言いようがないようなものとおっしゃっていた気がしますが、昔はそういう現実の解説文のような表現は身もふたもないというか、夢がないというか、そんな気がしてました。例えば、神秘的な体験と感じるような事も脳の症状の一つとして説明がついてしまったり。
でも介護の仕事で、色々な脳の症状がある方とお会いしていると、確かに、右脳は左半身と繋がっていると同時に、主に直感的に全体を捉える働きをしていて、左脳は右半身と繋がっていると同時に、主に言語を通じて論理的に理解する働きをしているという事が、迷信でも何でもなく現実、そのようにできているのだという理解に及びます。現実的に、最適と思える対応をするためには解剖学や生理学的な視点が必ず要ります。
…今日もまた話があっちに行ったりこっちに行ったりしておりますが、えーと「みみずくは黄昏に飛びたつ」の話でした。
知らなかったんですけど、「ミネルヴァのフクロウは迫り来る黄昏に飛び立つ」という有名な言葉があるそうで、ミネルヴァというのはローマ神話における詩や知恵の女神で、知恵の象徴であるフクロウと一緒に描かれます。フクロウは夜行性であり、夕暮れから行動し始め闇夜に羽ばたきます。その習性になぞらえて、1日の生活のように活動期を終え、疲れや衰えが見え始める人生後半にさしかかる頃、人は知恵や洞察力を手に入れるものだという意味なんだそうです。
脳の研究者である池谷裕二さんが言うには、中年期以降は脳のパターン認識が飛躍的に増えるので、自分の視点にひとつ新しいものを加えるという事を繰り返すと人の考えは驚くほどおもしろいものに発展するんだそうです。
小説家は、自分の語り口、文体を磨いていく事が何よりも大事だと村上さんは繰り返し言っています。
私が思うにヨガをする人は、自分の身体をどのように扱っていくのが最適なのか、その都度頭を働かせ、身体の動かし方を磨いていく事が大事です。どう生きるのが最適か、落ち着いて見直す時間を作るという事。そして私の感覚ではそれは主婦的な視点で言うところの、
・冷蔵庫にある残り少ない材料だけでも、とりあえず何か料理を作れる。できれば身体が欲しているようなものを。
・買い物カゴに入れた物をざっと見た感じ、だいたい何円くらいかの判断に誤差が少なくなってくる。
・何をどのスーパーでどれだけ買うのが適切かの選択肢が増えていく、あるいは迷いが少なくなってくる。
・料理と洗い物を自然に同時にこなせるようになってくる。
などの生活能力を磨いていくことと、地続きの事です。
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