「したい」と「すべき」をなじませる  


 ヨガのレッスンをしていて、誰に教わったわけでもないのに自然と口をついて出てくる言葉というのがいくつかあります。その内のひとつが 

  「いつだかわからない先の心地良さのために、今は痛みを自分に与えて耐えなければならない、というような動き方をするのはやめましょう」 

というものです。  


 現実の生活においては人との関わりというものがあるので、身近な誰かの今の幸せのために、自分は痛みに耐えてでも平穏無事な日常を支えたい、という自然な思いから動く事は当然あります。大人になればなるほどあります。 

 そして気づけばほとんどの時間を「人のため」「未来のため」に「今の自分の感覚」を犠牲にして痛みに耐えながら過ごす事になります。  


 ヨガの練習というのはある意味、極限までシンプルな状態まで「自分」を一旦巻き戻せるようになる練習であるともいえます。ただ存在しているだけで自然との一体感、豊かな情緒を味わう事ができていた、物心つく前の在り方まで。

 なぜなら、ヨガの練習中、ひとりひとりが自分の内に集中して結び直そうと努めている関係性は、大自然の一部である身体そのものの道理(大我)と、今の自分の在り方(小我)だからです。 

 こう言われて、その物心つく前のシンプルで幸せな感じをすぐに思い出せた人は、そのように育ててもらえたというありがたさに改めて気付くでしょうし、そんな感覚を思い出せない人も大丈夫。大人になった自分がきっと取り戻してくれます。  


 長時間の同じ姿勢が身体をこわばらせてしまうように、無意識に繰り返している思考回路によって心身がコリ固まってくる事があります。その最たるものが「先の幸せのために今は痛みに耐えよう」という思考ではないかな、と思ってます。そのような思考は長く続くほど、そして同じ思考回路を強化した人が集まるほど痛みや違和感は強まり、より一層耐えがたいものになります。  

 「今の自分さえ良ければいい」という短絡的でわがままな在り方は良くないというのはとてもわかりやすいけれど、反対に「まわりや未来のためなら自分の身体はもうどうなってもいい」という行き過ぎた自己犠牲や、身の丈に合わない理想に引っ張られることもまた、道理に合わない不調和でアンバランスな在り方です。   

 そしてこの在り方は一見とても美しく見えることもあって、どこまでいったらやりすぎなのか、どこに引き返すべき境界線があるのかが、とてもわかりにくい。今だけ、これだけ、あとちょっとだけ、と、つい無理に無理を重ねてしまいやすい。

 多少の無理は、自分の限界を超えて可能性を広げうる刺激であることに間違いはないけれど、長期にわたる多大な無理に耐えられるようには、身体はできていません。 そこの見極めがとても難しい。

  身体からの限界サインをキャッチした時こそ、一度立ち止まっていつもの自分の慣れた在り方を手放し、今の自分によりマッチした在り方を見出すチャンスです。

 例えば、まわりの人を信じ状況を伝えて助けを求める勇気を出したり、一息つく間をこまめに作って身体を休ませる工夫をしたりして、努力の方向性を整えます。  


 ヨガの練習では、感覚神経と運動神経を磨くかのように、ポーズを通じて身体を無理なく無駄なくちょうどよく伸び縮みさせていきます。自然な呼吸の快適さ、心地良さをまず確保する事は決して譲らずキープしながら、ひとつひとつの動きをていねいに選び直し続けます。

 漠然とした未来のために今は痛みに耐える、といういつの間にか身につけた在り方を無意識に繰り返すのではなく、今の自分が気付く限り、できる限りで、快適で心地よい感覚を今、今、今、ここで得られ続けるように、動き方を変え続けます。  


 北極星を中心に回転運動を続ける星座を観察するかのように、ヨガの上達あるいは自己理解という揺るぎない一点を遠く内に見据えて、毎日毎日動き続ける自分の体と心と呼吸の変化を観察する事は、今や私にとって「すべきこと」であると同時に、興味の尽きることのない「したいこと」でもあります。  

 そしてそのように自然の道理に調和する方向へと進んだ先に待ち受ける最終的な自然回帰である死は本来、壮絶な戦いの末に打ち勝つべき恐ろしいラスボスのような存在ではなく、むしろ絶対的に安心安全なスペースに還っていくというだけの、自然で気持ちのよい経験なのではなかろうかと思ってもいます。



at   SYNESTHESIA  HILLS


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