固めるべきか緩めるべきか

物やお金にしても、時間や能力にしても、どれくらいあれば人は安心できるかというのは、これはやっぱり「それについて心配しなくてもいいくらい」というあたりに境界線があるのだと思います。

その境界線を越えたのに更に更にと進みすぎると、ふしぎと逆に不安が増していきます。欲望みたいな形のないものには限りがないから、極端に寄り過ぎると、気づけば自然な呼吸を維持できる範囲を超えた危険な状態に陥ってしまいます。

………

何かの役に立ちたいという、人の本能的な欲求は言い方を変えると、自分の身体よりも大きな何かの一部として、自分がきちんと機能していると実感したいという事で、

自分の好きなように楽しみたいという欲求は、身体サイズの、「個」としての自分を実感したい、という事です。

何でも自分ひとりでこなせるようになって、自分は犠牲になっても構わない、というやり方でもなく、

逆に、誰かが何とかしてくれるはずだからと、何でもまわりに依存するやり方でもなく、

無理なく楽しく生活を回そうとするならば、これはもう「自分」のサイズを時と場合によって、

身体サイズ
家族サイズ(の一部)
職場や学校サイズ(の一部)
町内サイズ(の一部)
都道府県サイズ(の一部)
日本サイズ(の一部)
地球サイズ(の一部)

などの間を自由に行き来している感じで、外部環境を変えると同時に、内部の自己イメージをも変えながら行動していくしかないんだと私は思います。

“自分”というのは普通、身体サイズの自分をさすので、そのサイズに自己イメージを固定した自分が世知辛い世の中をアップアップしながら何とか泳いでいる内に、身も心も縮こまって息も絶え絶えな感じにどうしてもなってきます。

やる事多すぎてしんどくなってきたら、もういっその事、いちど話をひっくり返して、

“自分”=
「うねり続ける“いのち”という全体性」

なんだと、一番小さくなった自己イメージをいったん振り切って反対っかわの一番大きな自己イメージに軸足を移した方がいいです。

具体的にどうすればいいかというと、自分の限界を認めて素直に助けを求める。まわりから愛情を向けてもらえたならば、ありがたく素直に受け取る。

そうすると、本当は自分の仕事は全体の仕事の一部な訳ですから、ひとりで抱える必要はないんでは?という気が自然としてきます。簡単ではないかもしれないけど、これができるようになったらきっとすごく気が楽(自分に言ってます)!

ハタヨガ(体を動かしながら今の自分を観るヨガ)の練習においても、本当に難しいのは、自分の限界を超えて頑張り続ける事よりも、今の自分の状態をそのまま受け入れる事の方です。

人は生まれてから、そうやって何度となく、内側と外側がひっくり返ったような認識の変化を何とか乗り越えながら大人になっていくんじゃないかな。

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