コエカタマリン


 10月も終わりに近づく今の時期、そろそろ年越しの段取りや準備に意識が向きはじめています。先日も介護の職場で

 「今年もあっという間に年の瀬が近づいてきましたね。時がたつのが本当に早いですねー。」

と仕事のお仲間(60代・男性)に話しかけたら、予想に反した答えが帰ってきて

 「そう?時間感覚は年末年始もいつも通りで特に変わらないけど。どうして、年末が近づくと時間の流れが早いと感じるの?」 

 と、聞き返されました。そんなの当たり前だと思って考えた事もなかったけど、改めて聞かれて、私もどうしてかな?とよく考えてみました。 


  思うに、年末年始は確定申告の準備とか、年賀状やお年玉の準備、帰省の段取り、大晦日と正月の食材準備、大掃除などなど、現実的に向き合うべき待ったなしのタスクが実際問題、他の月よりも圧倒的に多いわけです。同じ時間内にたくさんの用事を詰め込んだら、そりゃ時間が足りないように忙しく感じるわな、という事なのだろうと思います。 

  その慌ただしくも充実した時の中で一年を振り返りながら、お世話になった方に感謝の思いを馳せたり、お世話になった物に感謝して手入れをしたりと、せっせと手足を動かしている内に自然と自分の心の整理もついてきて、ようやくどうにかこうにか新たな気持ちで年を越していく事ができる、というのがいつもの流れ。  


 そんな感じで、ようやくひと山越したと思って一息ついて自分のペースで歩いていたら、もう向こうの方から次の山が近づいてきているのが視界に入ってくるというのがちょうど今の時期。あっという間に、またあの忙しいシーズンがやってくるよという心の揺れ動きが時間が伸び縮みするイメージとなり、はじめの私の発言として出てきたんだと思います。  


 ちなみにその仕事のお仲間はとても博識な方で、なぜだかこの会話の流れで老荘思想に触れたりしていたので、気軽な世間話のつもりだった私の質問を「そもそも“時間'とは何か?」という物理的あるいは哲学的なスケールで受け取っていた可能性もあるかも?もしそうだとすると


 私 

 「あっという間に年の瀬が近づいてきて、時間がたつのが本当に早いですねー。」 

 (年末年始って本当に忙しいですよNe!)


 お仲間 

 「そう?年末年始もいつもと特に変わらないけど。どうしてそう感じるの?」       

   ( 物理学的には厳密な意味での"時間"など存在しないのだ。知ってるかい?) 


 というコミュニケーション不全が起きていた可能性もあります。よく考えたら、家庭内で家事育児に非協力的な夫に対して妻が不満を感じている時とか、職場内で現場担当者と管理担当者の間でスムーズな意思疎通が図れていない時にも、これに近い事が起きているのかもしれない。  

 一方は俯瞰した視座から落ち着いて現実を眺めている。その隣りで、もう一方は目の前の現実のタスクをこなす事に必死になっている。


......


 人からの問いかけをきっかけに、普段はあたり前の事として気にしていない物事に対してつらつらと思考を巡らせている内に、最近の私のテーマのようなものが思考の波に浮かぶ声の固まりのように意識上に浮かび上がってきます。その心の声を並べて言葉にするならたぶんこんな感じ。  


 「フワフワモヤモヤした自分の気持ちを全身から汲み取り読み込み、とりまとめてかためて言語化し、可視化、予定化すること。  そして、その予定をもとに自分の身体を動かして、自分の望む未来に向けて現実を回していくこと。  この「本心からやりたい事を自覚して、それを行動に落としこむ事ができる」という力こそが、よく考えれば考えるほど本当は、声が形になるドラえもんの"コエカタマリン"よりももっとパワフルに自分を助けてくれる魔法のような道具なのであり、人に備わったすばらしい能力なんだ。」  


......


 どういう事かというと、本心から望む事をするにしても、本心では望んでいない事をやめるにしても、まずは、そのぼんやりとした気持ちを言語化して自覚する必要があるという事です。そしてそれを実現するための具体的で現実的な予定を入れなくてはいけない。あるいは予定から外さなくてはならない。  


 平凡な毎日、あたり前の日常をていねいに味わう事で感覚器官を養い、頭を働かせて感覚を統合させよく考えて、必要に応じて予定を軌道修正しながら、動き続ける事で行動器官を養う。 

 結局はそんなシンプルな作業の繰り返しだけが、現実的な痛み苦しみを軽減させながら喜び楽しみを広げる事のできる唯一の手段であるとも言えます。  


......

 

 たとえばの話。毎朝、限られた時間でお弁当を作るたびになんか魔法みたいだな、と思っています。  

 冷蔵庫の中には、週に何度か行く近所のスーパーと、月に一度行くコストコで買い求めた食材が入っています。たくさんのマンパワーと叡智によって、今や世界中から流通される様々な大自然の恵みを近くの店で買う事ができます。そこから毎朝、必要な分だけ取り出して台所に広げます。          

 毎朝、時間との戦いなので起き抜けすぐから集中しないといけない。無心で手を動かしてお弁当の形に仕上げたら、台所をまるで何事もなかったかのように元通りの静かな状態に戻しておきます。その頃には自分の気持ちも家族の出発時刻に間に合った安堵感で満たされて穏やかになっています。

  朝のこの短時間で、台所に起きた変化はただひとつ。世界中に散らばっていた食材を集めて料理したお弁当が、お昼の家族のニーズを満たすべく、今こうして確固たるひとつの形を伴って目の前に現れた、という事だけ。

 空即是色なこの感じは、魔法でないなら一体なんなんでしょう。 



 大自然の恵みとマンパワー 

    ↓    

          スーパー 

    ↓    

   冷蔵庫

     ↓    

  お弁当箱

     ↓  

 家族のお腹の中

     ↓ 

大自然の恵みとマンパワー

     ↓    

   スーパー 

     ↓    

        …………  



 その裏では同時に、週に2回のゴミ出し。それを回収して燃やしてくれるゴミ処理業者さんのお力。トイレ掃除。上下水道に関わる業者さんのお力、などによって循環する色即是空的な循環も起きています。  


......


 サン=テグジュペリの星の王子様も「大切なものは目に見えない」んだといっているように、目先の結果に執着しない事が大切だとか、形あるものや目に見えるものだけに囚われない事が大事なんだと私たちはいろんなところで見聞きします。  

 村上春樹さんの言葉を借りるならば、「真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある」 という事になるでしょうか。  


 いずれにしても現実的な話、大自然の恵みとマンパワーの恩恵をいただくためには、自分の頭と身体を使って、いただくのにちょうどいい質量にまとめ直す作業が必要です。買い物をしてお弁当を作るみたいに。  

 逆に、火や水のエネルギーとマンパワーによる浄化を願うにしても、自分で不要な物を仕分けてひとまとめにし、排出する力が必要です。ゴミを一袋にまとめて家の外に出しておくみたいに。 


  目では捉えられないほどフワフワモヤモヤとした自分の気持ちを注意深く観察し、言語化、可視化、予定化し、その全身で感じ考え抜いて決めた予定をもとに身体を動かして、コツコツと淡々と現実を回していくと、次第に「色即是空↔︎空即是色」を行ったり来たりするような好循環のループが、らせんのように自分を貫きながら取り巻いているのがみえてきます。


滝谷不動尊 秋季大祭にて

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