「ネガティヴ・ケイパビリティ」


 今年の3月、4月は、子供ふたりの卒業と入学が重なり、手続き等々に追われる日々を過ごしていました。


 高校の入学式の後に配られた資料の中に、「ネガティヴ・ケイパビリティ」という言葉について触れられたものがありました。

 これは、精神科医で小説家の箒木蓬生(ははきぎ ほうせい)さんの本のタイトルで、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」をさします。

 あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味します。


 配布資料に載っていたのは、大学入試問題用に一部抜粋された文章のみでしたが、続きが気になったので本を買ってきて読んでみました。


 著者は精神科医になって六年目に入った頃に眼に飛びこんできた「共感に向けて。不思議さの活用」という表題の医学論文の中で、この「ネガティヴ・ケイパビリティ」という言葉に出会います。精神科医にとって臨床五、六年目というのは、多少の自信をつける反面、自分の未熟さを思い知る時期であり、そもそも精神医学そのものに、どれだけの力があるのだろうという不安や無力感にさいなまれる時期なのだそうです。

 

 医学論文はそれまでも多数読んでいたし、その後も現在まで数えきれないほど読んでいる著者にとって、この論文ほど心揺さぶられた論考は古稀に至った今日までなく、このとき衝撃をもって学んだネガティヴ・ケイパビリティという言葉が、その後もずっと自分を支え続けているのだと書かれています。難局に直面するたび、この言葉が思い起こされ、逃げ出さずにその場にい続けられたという意味で、自分を救ってくれた命の恩人のような言葉なのだと。

 

 目の前に、わけのわからないものが放置されていると脳は落ち着かず、及び腰になります。そうした不快な状態を回避しようとして脳は当面している事象に、とりあえず意味付けをし、何とか「分かろう」とします。

 「分かる」ための究極の形がマニュアル化です。ヒトの脳が悩まなくても済むように、マニュアルは考案されているとも言えますが、ここには大きな落とし穴があるのだと著者は警鐘を鳴らします。

 

  「私たちが、いつも念頭に置いて、必死で求めているのは、言うなればポジティブ・ケイパビリティです。しかしこの能力では、えてして表層の「問題」のみをとらえて、深層にある本当の問題は浮上せず、取り逃してしまいます。いえ、その問題の解決法や処理法がないような状況に立ち至ると、逃げ出すしかありません。それどころか、そうした状況には、はじめから近づかないでしょう。

 なるほど私たちにとって、わけの分からないことや、手の下しようがない状況は、不快です。早々に解答を捻り出すか、幕をおろしたくなります。

 しかし私たちの人生や社会は、どうにも変えられない、とりつくすべもない事柄に満ち満ちています。むしろそのほうが、分かりやすかったり処理しやすい事象よりも多いのではないでしょうか。

 だからこそ、ネガティヴ・ケイパビリティが重要になってくるのです。私自身、この能力を知って以来、生きるすべも、精神科医という職業生活も、作家としての創作行為も、随分楽になりました。いわば、ふんばる力がついたのです。それほどこの能力は底力を持っています。」

 

 この本でネガティヴ・ケイパビリティ(陰性能力)、ポジティブ・ケイパビリティ(陽性能力)という言葉で表される陰陽の関係性は、ハタヨガの練習において現実的な身体感覚をともなって観察されるものでもあります。

 目先の目的に執着せず、過度な焦りや緊張を手放して肩の力を抜き、地に足をつけてふんばり下腹に力をみなぎらせ、安定した土台を固める事ができてはじめて、無理なく無駄なく快適な伸びを得ることができます。



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