パスの練習


 中学三年生の息子が、幼稚園生の頃から、かれこれ10年サッカーを続けています。

 

 先日、久しぶりに試合を観戦した後、ふと気になった事を聞いてみました。サッカーの試合中に自分にボールが回ってきて、シュートを打つのもドリブルで抜けるのも困難な場面でパスを出そうとする時、具体的にどこの誰にパスを出すのか、たくさんの選択肢の中からひとつに決めて実行する瞬間、何を頼りにそれを決断しているの?と。息子の答えは、


 「パスの受け手が、ここにパスを送って欲しいと要求している気配に気づくから。」


という事でした。なるほど。それはつまり、受け手の要求に気づくのと、送り手としての自分の視座から見た最適な試合展開のイメージが湧くのと、身体が動くのがほとんど同時に起きている、という事なのでしょう。

 

 

 一方、私が介護職に就く前に受講した初任者研修の修了式で、研修責任者の方が口にされた言葉を今もよく覚えているのですが、それは、


 「介護というのは、その場に一瞬生まれて、すぐになくなるものです。」


という言葉で、確かに、介護用品という物は存在していても、介護というのは、人と人との関係性のひとつのあり方をいうのであって、ある意味、介護者と被介護者の間でつないでいる何らかのパスのようなものであるともいえます。

 

 先日、入浴介助を担当させてもらったご利用者さんが、とても上手に介助を受け入れてくださる方で、何かする度に、「こんないい所はないわー」とか、「最高やー」とか、「ありがとう」とか、口調や表情、身のこなし全てでもって、介護者である私のできうる限り最高のパフォーマンスを引き出してくれるような方でした。そのような方々に、私たち介護者は日々育てられています。


 同じ日、また別のご利用者さんの入浴介助中、ご自身でもできる範囲で洗体してもらいながら、背中など手の届きにくい所を洗う介助をしていると、


 「自分でもできる限り、手を動かそうって思っているんだけど、普段手の届かない所を手伝って洗ってもらうと気持ちが良いから感じ入ってる内に、ついつい手が止まってしまうのよねー。だめねー。」


とおっしゃるので、

 

「あんまり手を動かす事ばかりに一生懸命になりすぎても、気持ちがいいなーと感じる間がなくなって、もったいないかもしれませんよ?」


と、お返ししたら、


 「それもそうねー。じゃあ、私はずいぶん得してるのかもしれないわねー。」


と、うなずいておられました。

 

 

 この会話は、すごくヨガに通ずるなと私は思いました。ヨガの場合は、自分の内側でパスの自主練をしているようなところがあって、イメージするポーズに向かって動きながら、同時に、その動きがもたらす感覚に気づき続ける訓練をしているのですが、息を張り詰めるほど集中して運動神経を働かせないと安定したバランスを保てないようなポーズもあれば、コントロールを手放して体の緊張を緩め呼吸が深まった時はじめて受け取れる感覚があるのだと気づくほどに感覚神経が研ぎ澄まされるポーズもあるからです。

 

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