かわいそうなんかじゃない


 だいぶ後になってからようやく「あの時のあの人の言葉に込められた思いがわかった」と気づくこと、たくさんあります。


 最近では介護の職場で、

 「この現場の人手は足りているから、(おそらく人手が不足しているであろう)他のフロアのヘルプに行くように。」

という普段あまり受けない指示を受けて向かったところ、そのフロアも人手は足りている様子でしたが、そこで事情を伝えたところ、

 「それなら、ここにいてもらってもいいですよ。」

と言われて、特に何か急ぎの仕事をするでもなく、その現場の状況把握に努めながら、ひとまずご利用者さんと一緒に座ってお話ししたりしていました。組織においては誰しも、個人の都合よりも全体のスムーズな運営を優先して行動を選びます。最近スタッフの人数が増えたので、フロア間の適切な人員数を臨機応変に管理調整されているのだと思われました。


 少しして「あっちでも、こっちでも、今、私はここでは特に必要とされてなさそうだ。役に立っていないけど、ここにいてもいいのかな?」という居たたまれない思いが、慣れない場所に身を置いている自分の内にふっと湧いてきたその時、いつも「用事があるから家に帰りたい。」と言うご利用者さんの気持ちがわかったような気がしました。

 

 ちょうどその日の休憩中に、他のスタッフがひどい肩や首のコリに悩まされるようになり、あるご利用さんが冗談とも本気ともつかない調子で口癖のように「首から上は、いらない!」といつも言っているけど、その気持ちがわかった、という話をしているのを聞いたところでもありました。


 人の感情や感覚というものは、たとえ目の前にいる人のものであっても、私の目にはその人の顔しか見えていなくて、その人には私の顔しか見えていないように、同じ時に同じ場所にいても何を捉えてどのように感じているかは人それぞれに違います。同じような立場や状況に立たされた時にはじめて、当事者の心情を思い知る事ができるのではないかと思います。

 


 過去を振り返ると、肉体的にも社会的にもあらゆる意味でとても弱い立場に立たされている時期に、ある限定された場において自分より上の立場の人と一対一で向き合っている時に、理不尽な言動をされたと感じる事があって、それは側から見たら、売り言葉に買い言葉とも言えそうな、ただのよくあるセリフの応酬に過ぎなかったのかもしれないと今なら思えるのだけど、当時の私にとっては脳や心臓をはじめ全身全霊を貫くようなとんでもない危機的な反応が起きたという実感があり、自動的にその表情や声色を含んだ場面ごと記憶に刻まれました。もしそれが心ではなく肉体への傷であったなら血が流れて誰の目にも明らかなくらいの衝撃を受けた出来事として。状況が落ち着いてからも、その人の事をかなり長い間許せなかったし、二人の間でそんなやり取りなんて起きなかったかのように接してこられても、今の自分が許してしまったら、大変な時期を耐え抜いた過去の自分がかわいそうだ、という思いに囚われていた時期もありました。同じような状況は、時と場所と人を替えながら何度か訪れました。


 一方で、子どもが小さい頃に家で子供を叱っていて、自分の怒りの感情がいつも以上にブワっと燃え盛るのを感じたその瞬間、今自分は閉じられた場所で圧倒的な力量差をもって上の立場に立たされていると気付いて、感情を制御しきれない自分自身に対して、ものすごい恐れを感じた場面も記憶に刻まれています。


 人の痛みや恐れは外からは見えない。


 今まで知らなかった類の痛みや恐れから顔を背けず直視せざるを得ない程に真正面から対峙してくれた相手とは、その関係性の緊迫度がピークに達した事を象徴するかのような場面が脳裏に焼きついた後、時がたち波が引くようにして気が緩むにつれ、次第にその人の美点、自分の甘さや至らなさまでもが視界に入ってきて、今では何ともいえないありがたみを感じられるまでになりました。時間薬が効いてきて、その人自身の背景と、私自身の背景、そしてその両者が入った空間の蓋が閉じられた時に水槽の金魚がいじめあうみたいな状況が自然力学的に発生した事を、分けて捉え直せるようになり、当時の恨みがましい自己憐憫からようやく解放されました。


 

 そして、ここで一番言いたいことは、自分の心や体の痛みと向き合っている時、その人は決して"かわいそうな人"なんかじゃないという事です。


 私はある時から、自分の事も人様の事も、"かわいそう"だと勝手に決めつけるのは失礼だからやめようと思うようになりました。


 誰だって、この不安定な世の中で、安定して快適な心の置きどころを求めて自分なりのバランスの取り方で奮闘しているのだし、長い時間をかけて多くの側面から理解しようと努めなければ、人が痛みや恐れを抱えるに至った事情は見えてこないのだから。


 そして何より、"かわいそう"という言葉は人を思いやる気持ちの表れでありながら、使い方によっては上から目線の傲慢さの表れとなってしまう事もあり、その思いは必ず言動に滲み出て、その言葉に伴う行動次第で相手を勇気づける事もあれば、可能性を無力化させる事もある諸刃の剣だと感じるからです。


 米津玄師が「ピースサイン」という歌で


  守りたいだなんて言えるほど

  君が弱くはないのわかってた

  それ以上に僕は弱くてさ

  君が大事だったんだ


と歌っているように。髭ダンの「Subtitle」の歌詞も沁みます。


 古典的なヨガの教えに「タパス」という原則があります。「苦行」とも訳され、自分の定めたテーマに対して充分な熱意を持って取り組む、という生きる上での勧戒(した方が良いとされる事)なのですが、言葉を変えるとこれは、ある習慣的なパターンが新しい、より有益なものへと移り変わる時の摩擦や不快さといった熱を受け入れるということでもあります。





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