ハタヨガの真髄・物語の神髄


 村上春樹さんの新しい長編小説「街とその不確かな壁」を読みました。あとがきにあるように、この小説は40年前に文芸誌に発表されたものの、内容の未熟性にどうしても納得がいかず、村上さんの書いたたくさんの小説の中でほぼ唯一、書籍化して発行しなかったという同名の作品が核となっています。



 1985年、ということは今から38年前にも一度、村上さんはこの「街とその不確かな壁」を上書き修正するようにして「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」という作品を仕上げていて、作品の未熟性に決着をつけたつもりでいたものの、その後の年月を重ねる内に、喉に刺さった魚の小骨のように気にかかる存在としてまた自分の内に浮かび上がってきた事に気づき、上書き修正とはまた異なる形の対応があってもいいのではないかと考え再び筆をとったそうです。


 

 この小説は私に今まで読んだどの小説とも違う不思議な読後感をもたらしました。まるで熟練の陶芸家が自分のイメージと、素材のコンディションを掛け合わせて無理なく無駄なく美しい作品にまとめ上げるみたいにしてこれ以上ないほど入念に、と同時にこれ以上ないほど手際良く完成された、村上文学の決定版のような作品だとまず感じました。

 

 

 そしてこの本は私の中で、未消化なまま引っかかっている記憶を掘り起こし、今から知るべき情報を引き寄せて、繋がりながら腑に落としていくテトリスみたいな作用を果たして、立て続けに色々な本をもう一度読み直したくさせたり、新たに手に取り読みたくなる本に出合わせてくれたりしました。



 村上春樹さんてなんだか、なるべく痛い思いをさせないように治療してくれる優しくて腕のいい歯医者さんみたいな方です。あるいは、人じゃないけど、マップを縮小したり拡大したりしながら行きたい場所にスムーズに道案内してくれるナビゲーションシステムみたいな存在。



 自分が本当に知りたいと思っていることは何なのか、とか、自分がとらえた何らかの違和感の奥では何が起きているのか、とか近すぎたり遠すぎたりして自分ではよく見ることができないけれども生きる上で根本的で重要なテーマについて、巧みな方法で道を教えてくれたり、違和感を取り除いてくれたりします。


 

 この小説を読んだ後に不思議な気持ちにおそわれる一番の理由は、読んでいる内に段々とストーリーの展開として面白いか否かは気にならなくなってきて(更に正直にいうと、村上春樹さんらしさを突き詰めたような文体と構成の小説で、あまりにもサラサラとスムーズにどこにも引っかかるところなく読めるからなのか、どんなストーリーだったかよく思いだせないくらい読みやすい)、「これは小説の形をしているけれども内容的にはどちらかというと、教本、経典、あるいは神話のような、とっつきにくいものをすごく親切で腕のいい翻訳家が読みやすい形に整えてくれたものを読んでいるのではなかろうか?」という気がしてくるからです。小説作品としての印象が透明に近いのに、いや違うか、透明、クリアな印象だけを残すような作品だからこそ、というべきか、それと向き合った時に、その他全てのテーマが自分の中で色濃く浮かび上がり活性するように作用したという事なのかもしれません。まるで鏡のように。あるいは光を放ち気づきを促す太陽のように。



 それゆえにこの読後感は、B.K.S.アイアンガーの「ハタヨガの真髄」(原題:Light on Yoga)を読んだ時のそれにとてもよく似ています。本の成り立ち方もよく似ていて、「街とその不確かな壁」は著者の40年の経験と歳の積み重ねを要したのに対して、「ハタヨガの真髄」も、掲載されているアイアンガー先生の写真は、35年間、来る日も来る日もヨガを実践してきた時点で撮影されたものであり、どちらも相当な熱量が込められています。同じように長い過程を経て熟成されるようにして仕上がった本の姿形も、ちょうど同じ位のサイズです。



 アイアンガー先生の記した序文によると、先生の生涯、全生活がこの偉大な芸術(ヨガ)に没入するひとつのあり方を示していて、そのような自己について語ることができるのは、今日まで続くそうした行(ヨガの実践)の賜物にほかならないのだということです。



 村上春樹さんは「街とその不確かな壁」のあとがきを次のように締めくくっています。

 「要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。僕はそのように考えているのだが。」



 ひと通り目で字を追うだけでは到底読みこなし理解したとは言い得ない、大変なエネルギーが込められた本を、できる限り腑に落とし理解を深められるように、自分なりの実践練習を続けていきます。


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