「自分と他人の許し方、あるいは愛し方」

三砂ちづるさんという、津田塾大の多文化・国際協力学科で疫学の教授をしている先生の本を、数冊読みました。

以前にも「オニババ化する女たち」という本を読んでいましたが、最近読んだのは「死にゆく人のかたわらで」と「自分と他人の許し方、あるいは愛し方」の2冊。

「死にゆく人のかたわらで」は、三砂先生がご自宅でご主人を看取られた時の事について書かれた本です。幸いな事に、最期の時は想像していたような怖いものではなく、穏やかな時間だったそうです。その期間を振り返って一番怖かったのは、意識喪失による転倒と、大量の失禁の症状があった一時期だったそうです。

私の家族の事でお世話になった在宅医療のお医者さんから聞いた話でも、終末期にできるだけ避けたい状況は、家族が落ち着いて対応できないほどの急な体調の変化(転倒や失禁)があって、慌ただしい空気の中で看取らざるを得ないような状況だそうです。

恐れているのは、自分もまわりも落ち着いて対応できないほどの、急激な身体機能の喪失から受ける衝撃。

逆にいえば、落ち着いて対応できるペースでゆっくりと身体機能が衰えていくか、あるいは、あらゆる身体的な危機的状況に対応可能な状態を維持するべく、身のまわりの環境と自分の心構えを少しずつ準備しておけば、衝撃を緩和できるという事です。

前者は自分の意思で全てをコントロールしきれる事ではないので、できるだけの事をするのみですが、後者については、どういう環境が今の自分や家族に適しているのか、そこでどういう態度を取るのか、を自分で見直して、選び直す事ができます。身体、心、環境がうまく噛み合いさえすれば、人の死に関わるという経験は、必ずしも恐怖で身が縮まり心冷え固まるようなものではなく、穏やかに緩まり心温まる経験にさえ成り得ます。

「自分と他人の許し方、あるいは愛し方」の中で、三砂先生は
「魔の正体は、自己憐憫と罪悪感です」と言い切っています。私ってかわいそう…どうせ私なんて…というのが自己憐憫、私のせいだ…私が悪い…というのが罪悪感。

自分の内側で被害者や加害者の感覚を生じさせてしまっている時、感覚の中立性、冷静で適切な判断力は失われます。そのバランスの欠如こそが、魔や不幸の正体なんだと、私も思います。

前の本(「死にゆく人のかたわらで」)との関連でいうと、この話は難局を乗りきる際の心構えとはどんなものか、という問いに対するヒントにも繋がっていくと思うのですが、この自己憐憫と罪悪感という感情はどちらも、エネルギーを冷やし固め、自己の分断、対立、葛藤を生じさせるものです。難局に際しては、そうではなく、エネルギーを温かく緩ませ、馴染ませ調和させるような感情を自分にも向けるのが望ましい。

こまめに、少しずつ、自分を受け入れる。認める。許す。褒める。愛する。

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